代表 菅原

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『 日大アメフト部 VOL170 』 六月のコラム 上へ

 五月六日に行われた日本大学と関西学院大学のアメフトの試合で起きたラフプレーが大きな波紋を広げている。ボールを投げ終えた関学のQBが無防備になったところへ後ろから危険なタックルをして負傷させるという反則行為。日大の内田正人監督からの指示があったという加害者の宮川選手に対し、そういうことは言っていないと監督。20歳の宮川選手が行った時系列で納得できるような会見に対して内田監督と井上コーチのそれは支離滅裂で、とても真実を語っているようには感じなかった。責任転換、自己保身の言い訳に始終し、大人のずる賢さが垣間見られるような会見だった。内田監督は辞意を表明し、騒動の区切りをつけたかったのだろうが、その思いとは反対の方に向かっている。

 ことの発端はこのラフプレーが動画サイトに掲載され、アッという間に拡散、炎上したことだ。ちょっと前なら人目に晒されずに、見過ごされたプレーであったろう。良きも悪しきも誰かがj写真や動画を撮っている昨今。今回の問題は動かぬ証拠ともいえる画像で日本最大の学生数を誇る日本大学というブラインドにも大いに傷がついた。大学だけでなく、関係する付属の高校や教育機関にも影響がでているようだ。

 アメフトは身体と身体を激しくぶつけ合う為、防具でしっかりガードしている。ガードしているとはいえ当たり所が悪かったら、後遺症が残る可能性もあり、被害を受けた関学の選手の父親が被害届を出したのも無理からぬ話で、それだけ怒っているということだ。どの競技でも監督は絶対といっていい程の権力を持っている。監督の言葉は神の声といってもいい。宮川選手は監督やコーチの顔色を窺い、自分で善悪の判断ができなくなる位追い込まれていたということだろう。そういう面では宮川選手も被害者といえる。

 関東学生連盟が内田監督と井上コーチを事実上の永久追放に当たる「除名」処分とした。独自に関係者に聞き取り調査をした結果、内田監督と井上コーチの言っていることは虚偽があるとし、宮川選手に相手のQBにけがをさせろいう指示があったと認定した。更に被害選手が内田監督と井上コーチを傷害容疑で警視庁麻布署に告訴状を提出し、署が受理した。告訴の対象にはタックルをした選手は含まれていず、その告訴状には宮川選手の減刑を求める嘆願書が6000通以上も提出されたという。

 20歳の潔い良い若者と保身を図った大人の行方がこれからどうなるのか。SNSを中心にした炎上はしばらく鎮火しそうもない。

『 どん底なら穴を掘れ VOL169 』 五月のコラム 上へ


フランスの笑い話。
  あるフランスの片田舎に村一番のパン屋と評判の店があった。ところがある日、右隣に大きな店が建って、その店の看板を見ると、なんとそこには村一番に対抗して「フランス一おいしいパン屋」と書いてある。これは困ったと思っているところに、今度は左隣にもっとおおきな店ができた。しかも看板を見てびっくり。「フランス一」に対抗してい「世界一おいしいパン屋」と書いてある。「フランス一」と「世界一」のパン屋に挟まれてしまった村一番のパン屋の店主はもう店をたたまなければならないと窮地に追い込まれた。しかしパン職人が簡単に職替えなどできるはずもなく、悶々として考えた。結果、ふいといいことを思いついた。それからというもの、なぜか両脇の店にはお客が入らず、真ん中の店に連日の行列ができるほど繁盛した。一体、その店主は何をしたか。自分の店の看板を外して書き換えたのだ。「入口はこちらです」

 これは笑い話なので現実的ではないが、人生もちょっとした発想の転換によって「もうどん底だ」と思い悩むような状況でもチャンスに変えることができるといういい例だ。イタリアに「どん底なら穴を掘れ」ということわざがある。これが日本なら「どん底ならそこから這い上がれ」となるだろう。どうやったら上に登れるか、という問題の解決方法ばかりに頭が捉われていると、発想が固定化してしまう。そもそもどん底にいるならば上に登るより下を掘ったほうが出口は近い。地球は丸いのである。

 問題そのものを問い直し、命まで取られることはないと腹を括ると、思わぬところで打開策や違った角度から糸口が見つかったり、意外な人が手を差し伸べてくれたりする。このような時に、世の中捨てたもんじゃない、と感じる。だから、どん底を味わった人は、人生の応援団になる人が多い。(勿論、そうでない人もいるが)

 一生懸命這い上がろうとする者。自分には価値がないのではないかと思い悩む者。年齢を重ね、自問自答を重ね、喜怒哀楽を重ねていくうちに人は器が大きくなり、諦めも伴いながら小さなストレスは飲み込み心の広さを身につけていく。這い上がるか足元を掘るかそれぞれの選択。5+5=10だが、10は何足す何か?と問われたら答えは一つではなくなる。小数点や分数も含めたら∞。避けられない生老病死。「入口はこちらです」という発想で生きていけたら楽しい人生が送れるのでは?それにはまず、カタクなった頭を柔らかくしなければ。

『 天網恢恢疎にして漏らさず VOL168 』 四月のコラム 上へ


 「天網恢恢疎にして漏らさず」(てんもうかいかいそにしてもらさず)老子の有名な言葉。天の張る網は、広くて一見目が粗いように見えるが、悪事を網の目から漏らすことはない。悪い事を行えば、天罰を被ることになる。

 一旦収束したかに見えた森友学園問題が思わぬ形で再熱している。「安倍晋三首相が小学校建設に特別な便宜を図ったのではないか」という疑惑は改ざん前の文書が明らかになったことで、皮肉にもその関係性が希薄だったことが証明された。当初、朝日新聞が報じた時点では「書き換え」だったが、3月10日頃から「改ざん」という表現に変わった。

 前国税庁長官の佐川宣寿氏。昨年財務省理財局長だったときに「森友側と価格交渉はなかった」「関係文書は破棄した」などと語った国会答弁との辻褄合わせのために、理財局と近畿財務局が組織的に文書を書き換えたとみるのが妥当だろう。この答弁もかなり無理があり、おかしい。普通に考えて交渉経過の文書は保管して然るべきだし、破棄したなんてことはある筈がない。「ひとつのウソは次のウソを生む」というが、正にウソの連鎖である。

 改ざん前の文書にある総理夫人の明恵氏の発言。森友学園の籠池泰典理事長に対して「いい土地ですから、前に進めて下さい」という発言は近畿財務局の担当者が籠池氏から聞いたのであって、総理は「妻はそういうことは言っていない」という。明恵氏の発言を受けて、近畿財務局が付度して、ごみの処分費を見積り、土地を籠池氏側の思惑に沿うように条件や価格を操作したのではないかとみる。官僚の人事権が政治家にあるのか、人事に対して政治家の影響力が大きく作用するのか不明だが、いずれにせよ官僚は国民ではなく、上をみて仕事をしているとこだ。

 今回の公文書改ざん。一官僚によって国の命運が左右される可能性を示唆したという実に恐ろしい問題を含んでいる。万一政治家が絡んでいるとしても同じことだが、政治家は選挙の洗礼を受ける。官僚はヘマをしなければ国を動かせる程の力をもつということだ。

 誰かが朝日新聞にリークして発覚した今回の件。すっぱ抜きがなかったら、この改ざんは日の目をみることはなく葬られて、忘れ去れ、官僚の膿はそのままになっていた。財務省だけではないのではないか。他の省庁でもあるとみておかしくはない。

 「天網恢恢疎にして漏らさず」紀元前のこの言葉がピッタリの今回の改ざん劇。いつの世も人間界はかわらないのかもしれない。残念であるが。

『 平昌五輪 VOL167 』 三月のコラム 上へ


 韓国・平昌(ピョンチャン)での冬季五輪も無事閉幕。日本は金4、銀5、銅4の13個と過去最高のメダル数となり歓喜に沸いた。あと一歩でメダルに届かなかった4位や入賞の8位までの競技も多く、国を挙げてアスリートを育成している結果が現れたといってよいだろう。

 今の若者は真の自分を見失い、主体性を喪失していると言われて久しい。組織にいれば自己主張は通りにくいが、生活の安定は保全される。と思い込み、社会や常識の枠に収まっている。殻を打ち破り、メダルを獲るという気概を持つ人はほんの一握り。親の教育方針や天性の能力もあるだろうが、チャレンジしようという若者は実に少数。挑戦が面倒なのか、失敗が怖いのか。

 組織で一生懸命仕事をして、家族を養い、日本を支えている人は沢山いる。平均化と労働の分業化で、一見社会は安定しているように見えるが、自分を生きている人は何人いるのだろうか。五輪に出場できるような気概を持って生きる人は何人いるだろうか。小さいところでは朝、眠さを振り払いパッと起き上がり「今日も頑張るぞ」と思って起きる人が何人いるだろうか。

 セーフティーネットが定着して、食うに困る人が少なくなった日本。苦しいこと、辛いことに対抗力が弱くなった日本人。引きこもりやいじめ、心の病が社会問題になっているものの、有効な手立てはないままである。一番苦しんでいるのは本人でありその家族なのだが。それでも紆余曲折を経て、社会に出て自立できる人は少数派。

 主体性と精神性がどれほどの連係関係にあるのか定かではないが、いずれにせよ一般的社会生活をおくる上では、人間関係が心と大きく関わっていることは察することができる。目視できない心の傷の深浅はその人しか分からないものだけに対処の仕方が難しい。論語に「徳は弧ならず」とある。徳ある人は孤独ではなく、人が集まるということだが、艱難辛苦を経験して、それを糧として明朗に日々を過ごしている人は弧にならないだろう。

 多くの人の支えを受け、自分に負けない強いハートを持ったアスリート達が集う五輪。人知れず、悔し涙を流し、歯を食いしばって苦しい練習に耐え、国旗を背負って勝負する。コーチは今や外国の強い国から招聘する。その指導者の母国と競うことも当たり前。指導者も母国よりも教え子の勝敗に涙す。こうした筋書きのない真剣勝負は多くの人の心を揺さぶる。五輪出場それ自体がもの凄いこと、メダルが獲れなくても胸を張って帰ってもらいたいとすべてのアスリート達に伝えたい。

『 七つの原理 VOL166 』 二月のコラム 上へ


 丸山俊秋著「七つの原理」を読んでいる。抽象的な表現が多く、分かったような分からないような本である。

 七つの原理とは著者の祖父丸山敏夫が研究と実践から抽出した以下の七つ。
  ①全一統体の原理 ②発顕還元の原理 ③全個皆完の原理 ④存在の原理 ⑤対立の原理 
  ⑥易不易の原理 ⑦物境不離の原理
  原理は大体の法則なので、単純明瞭といえば単純明瞭なのだが、難解といえば難解。いくら言葉で説明しても説明し尽くせない。と著者自身が書いているような本である。七つの原理のうち①全一統体の原理はほかの原理のすべてに関連する基礎的な根底をなす原理。

 ①全一統体の原理から→この世の中に同じ物は一つとしてありません。ある物を分割した部分の各々も、それぞれが一個の物ですから、この世界には無数に物が存在することになります。ただし万物を無限に多種多様だと見るのは、一つの見方にすぎません。それは「個別的」な見方といえましょう。物は一つとして同じでないだけではなく、どの一つの物も、他の物や人となんらかの関わりなしに存在できません。単独で、それだけで存在している物などありません。

 まぁこの辺までは理解できる。本の続き→極微の世界も、極大の宇宙も、それが人間の感覚に入ると入らぬと関係なく、一糸乱れぬ理論に貫かれ法則に乗托して、万物万象ただ「一」と統体されて、各々その所にあり、その働きに生き続けて、万古不易、永劫の未来に及んで、ただ一連続に統体されて変わるところがない。そして一であると共に多く、多にて一、千紫万紅、百花爛漫、そのままただ全一と統体されたいみじさ。この辺からかなり怪しくなってきて、ことばは分かるがよく分からない世界に入ってくる。更に続き→宇宙は全一統体である。すなわち宇宙は、無限であり無辺であるが、皆一つに統一されていて、離ればなれの物、無関係にポカンとしている物は、何一つとしてない。二と見え三を見え個々別々のように思われるのは、感覚の世界のことで、見たり聞いたり、また触れたりすることで、光・色・形・音の奥は全部「-」と統一されている。感覚の世界と言われても二にも三にも見えるものは見えるのになぁ。そして究極→人間は、この超感覚の世界において、すべて一に銃(す)べられている。すべての物質は、これによって全一に統体され、人と物、精神と物質、完全に一つと結ばれる。その多と現じているが、超感覚の世界は一とかくれ、感覚による捕捉の域をこえる。

 この調子で七つもあうのだからもうお手上げ。なんだか、この手の本は嫌いではないので読んでいる。

『 2018・胎内記憶 VOL165 』 一月のコラム 上へ


 赤ちゃんは可愛い。人間でも動物でも。昨年上野動物園で生まれたパンダの赤ちゃん・シャンシャン(香香)のお披露目には抽選に当たった多くの人が行列をつくった。その無垢の姿に癒される。人間は初めから人間として生まれたわけではなく、その成長の過程で人としての学びをし、成長する。自我が芽生え、我を通し受け入れられないもどかしさを感じながら。動物とは違い、人間は言葉で自分の意志表示し、親や周りの人たちに影響を及ぼす。

 胎内記憶。3~4歳の子供に母親が「どうしてママのところに生まれてきたの」と聞くと、30~40%くらいの子供たちが「ママが淋しそうにしていたから」とか「ママに会いたかったから」とか受胎の時のことを話すという。父親が聞いても同じような答えが返ってくる。そうすると自分で親を選んで生まれてきたことになる。反抗期の時「親が勝手に産んだんじゃないか」とは言えないのである。

 ある程度の年齢になると通用する我儘と通用しない我儘があることが分かってくる。所謂世間の常識というヤツだが、世の中のルールに沿ってお互い助け合って世の中が回っていて、自分もその一員だと気づいていく。生まれた環境やその後の置かれた環境はその人の人生に大きく影響を及ぼすだろうが、自ら望んでその場にいると認識するかどうかで生き方に違いが出る。隣の芝生は緑色に見えると羨ましがっても何も改善はしない。人は兎角、他人と比べ、自分の環境を嘆く。嘆く時間があるなら、何かやることがある筈だ。すべて基軸となるのは自分だと気づけば、人生の体幹を鍛えることに目を向けられる。

 2018年が穏やかに明けた。還暦も過ぎて自分は「まだまだ」との思いもあるが、会社勤めの同年配者は定年を迎え、其々の第二の人生を歩み始めた者や役員として頑張っている者もいる。歩んできた道、これから歩む道は違うが行き着くゴールは同じ。確実に時計には刻まれ、矢の如く月日は流れる。これから先何があるか分からないが、まずは今年。年をとるとこれまで感じなかったことが面倒に感じる。確かにそうだ。億劫に感じることも多くなった気がする。だが、いいことも沢山ある。日本人の国民性のひとつに歳上の人に一目置くということが上げられる。年をとれば当たり前だが歳下が増える。

 健康に気を付け、億劫だなどと我儘を言わず、やることをしっかりやって、歳下に一目置かれるだけではなく、当てにされるような、良き60代の1ページの年としたい。生まれる前からすべて自分で決め、自分にしか味わえない自分の人生をこれまで送ってきたのだから。



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